矢川神社参道タイル

矢川神社と甲賀群中惣の繋がり

最近、人気のない神社を昼間にウロウロしていても、だいぶ怪しまれることの少なくなった清水です。こんにちは。

さて、今日は前回の続きです。矢川神社と甲賀の歴史を掘り下げてみることにしたいと思います。

甲賀=忍者=ゲリラ?!なのかもというワクワクを抱きつつ、戦国の甲賀にレッツラゴー。



 

横の繋がり精神

矢川神社と甲賀群中惣(こうか ぐんちゅうそう)の繋がりを紐解くにはまず、群中惣の知識収集から必要。

群中惣の始まりの構成要素として、まずこの甲賀地域で形成されていった地域の統治機構に、「同名中(どうみょうちゅう)」というものがあるのだそう。

話の前提として頭に入れておきたいのは、この甲賀群には飛びぬけて他を支配するような領主が存在しなかったということ。
地域に散在する谷ごとに、地元密着の地主さん(軍事力有り)みたいな感じの家がその周辺を統治していた。

中世全般として、限られた狭い地域において、その土地で有力な土豪やら地侍という集団がいた。
上に書いた地主さんみたいな感じの家、というがこの土豪・地侍。
甲賀ではそういう立場の主な家で、53家が存在した。

他の都道府県でも、こういう統治状態は似たり寄ったりで発生してはいたが、大体はその地域で近隣の家を滅ぼしてのし上がり、単独トップになって広域支配を行ったり、周辺地域の同格土豪・地侍たちに認められて、みんなの代表的な感じでトップになって広域支配に移っていったりした例が多い。

だがこの甲賀と伊賀は、そういう頭一つ抜きん出た家が出現せず、ある意味では民主的な合議制に基づいて地域運営を行い続けた少数派の地域なのだ。

そして、この甲賀ではその地域ごとの有力な家の惣領家(いわゆる本家みたいな感じ)と、同じ苗字をもつ家(同族の分家)や家族・被官(いわゆる家臣)等が結束して助け合い、同じ苗字を持つ同族内での諸所の行事や揉め事・同族集団の行動指標を決定するなど運営を行っていた。

これを「同名中」という。

そして、違う苗字の同名中のいくつかが連合して仲間になったものを、「惣」という。1ランクレベルアップ的な感じ。ちなみに同名中も「惣」の括りには入り、「同名惣」とも言うが、ここでは分かりやすくするために、同名中で読むことにしている。

例えば当時の甲賀における有力53家の中で「山中さん」と「供さん」と「美濃部さん」という苗字の集団がそれぞれ同名中を作っていて、その3つが連合したら「柏木三方(かしわぎさんぽう)」という名前の惣にクラスアップした!という例。

このクラス2惣にはいくつか有って、有力53家の中で有力な21家がそれぞれ近しい地域ごとに連合を組んでいる。柏木三方の他に、北山九方、南山六方、荘内三方の4地域で連合しており、その下に残りの32家の各氏族が従って地域運営を行っていた。
現在の分類上、このクラス2惣を「地域連合惣」呼んでいる。

そして、上記の53家の中から10家を代表として選出し、甲賀群の全体における地域防衛や領地支配の決定を合議制で行っていたのが『群中惣』なのだ。クラス3にレベルア~ップ!

忍法 信仰 読んだ時の音は似ている

やっと群中惣に繋げられた。なかなか複雑ですな。当時の地域自治の構造は。

ここでようやく、矢川神社の境内にドドンと鎮座する遺跡標の意味が分かってくるのです。

先ほどまで辿ってきて頂いた、甲賀における群中惣。その合議のための寄り合いが行わる会場となっていたのが、この矢川神社であったのだ。

なかなかに古き由緒を持つこの矢川神社を、当時の甲賀武士たちも非常に尊崇していたらしい。

みんなのための決め事は~、神様の御前で~という事。天の神々もご照覧あれ!この53家の間には、家格による発言力の上下は無かったそう。みな平等の扱いを受けたという事は、神様の前ではみな平等ということと通じているのかなぁ。

まとめ

ちなみに甲賀武士たちが忍者チックだったのかとえば、やはりそういう要素は持ち合わせてはいたようだ。

彼らが当時、戦闘の拠点として築いた砦は、狭い山間の斜面やら稜線、これまた山間の谷に土塁など盛って築かれた小規模の拠点を複数持った。それらが意味するのは、複数の拠点を自在に移動し、土地勘のある山がちな地形を利用した、神出鬼没のゲリラ的戦術を主なスタイルとしていたこと。

甲賀という狭い地域で、在地の土豪たちが独立志向の強い運営を行っていた以上、大国化は望めない。必然的に持てる動員兵力も限定的な規模となり、当時、勢いを増して巨大化しつつあった織田家のような兵力とは相対的に少数兵力となる。

少数兵力が自軍より多数の兵力と敵対するとき、とれる戦術的な選択肢は、そう多くはない。その中でも有効なのものの一つがゲリラ戦術だ。

そういった奇をてらう戦術には、当然ながら忍術のような特殊戦術を駆使するような部隊も発達せざるを得ない。なぜなら、数で劣る側がゲリラ戦術で有利に立ち回る為には、何よりも正確な敵軍の情報が欠かせないからだ。また、攪乱・暗殺などのゲリラ戦術の行きつく先には、忍術的なものが生み出されるのは必然であっただろう。

アメリカ独立戦争の時にも、ゲリラ部隊が非常に活躍した。戦局を左右するほどの存在感を持っていたのである。

最初に書いた、疑問の答えが出たかな~。

ゲリラ=忍者=山=甲賀 は当てはまるようだ。

他の地域の忍者集団と呼ばれた人たちが拠点としていたとされるのも、ほぼ山の地域ばかりだ。
いずれにしても、もう誰も生きてはいない時代の話だから、当時の実態はどうだったのかな~と思いを馳せるばかりなりだな。

タイムリープ、私が生きてる間に実現しないかなぁ・・・

 

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